手術を終え、退院してしばらく経った頃だった。
まだ痛みは強く、体は以前のようには動かない。
布団から起き上がるだけでも、一つひとつ筋肉の動きを確かめるような感覚があった。
それでも、子どもは変わらない。
私が病気をしたことも、どんな手術だったかも、深くは分かっていない。
それでも、いつもと同じように声をかけてくる。
「今日は公園いこう?」
その言葉が胸に響いた。
痛みがある日も、子どもは“昨日の続き”を生きている。
そしてその日、私はゆっくりと身支度をして、近くの公園へ向かった。
一歩ずつしか歩けない父と、スピードを合わせてくれた子ども
退院直後、子どもと家の近くの公園へ出かけた。
理由は、子どもが自分の自転車に乗りたいと言ったからだ。
私は何とか歩ける状態。
けれど、子どもが自転車で走り出すと、とても追いつけない。
小走りしようとすると、
術後の体はまるで自分のものではないように重く、
足が前に出ない。思うように動かない。
私は息を切らしながら、子どもに声をかけた。
「お父さん、足が悪くて追いかけられへんから
ゆっくり行ってくれへん?」
すると、子どもは自転車のペダルをゆっくり回し、
私の歩くスピードにぴったり合わせてくれた。
以前なら、そんなことおかまいなしに全力で走っていった。
事故が起きないか心配して、いつも後ろから追いかけていたほどだ。
それが、たった3週間ほどの入院の間に変わっていた。
「ああ、子どもってこんなに成長するんだな」
思わずそう感じた。
ベンチで休む私を見て、無邪気に笑ってくれた瞬間
長く歩くと、どうしても疲れが出る。
時々、自販機で飲み物を買い、公園のベンチに腰を下ろして休んだ。
腰を下ろすと、背中から腰にかけてじんわりと痛みが広がり、
ちょっと息を吐かずにはいられない。
そんな私の様子を見て、
子どもがこちらを振り返って、にっこり笑った。
嬉しかったのか、楽しかったのか、理由は分からない。
もしかしたら、
「お父さんに連れてきてもらえた」ことが嬉しかったのかもしれない。
あるいは、
大好きなリンゴジュースを買ってもらえたことかもしれない。
どちらでもよかった。
私には、その笑顔だけで十分だった。
「お父さん休んでていいよ」
理解しきれない年齢なのに、気遣ってくれた言葉
子どもは遊具で遊びながら、
ときどき私の方を見て、こう言ってくれる。
「お父さん、休んでていいよ」
手術や入院、どんな病気だったのか――
そんな細かいことは分からないはずだ。
それでも、
“お父さんがしんどい”
ということだけは、子どもなりに感じ取っているのだろう。
その気遣いが、胸にしみた。
たった数週間で、こんなにも変わるものなのか。
成長するというのは、こういうことなんだと、
目の前の小さな背中が教えてくれた。
ベンチに腰を下ろした瞬間に感じた、“当たり前のありがたさ”
再び歩き出して、また少し進んだところで私は限界を感じ、
公園の別のベンチに腰を下ろした。
座った瞬間、
背中から腰に痛みが走り、思わず前かがみになる。
その時だった。
子どもがゆっくり歩いてきて、私の横に座り、
何も言わずに足をプラプラさせながら空を見上げた。
そして小さな声で言う。
「今日は楽しいね」
ただそれだけの言葉。
いつもの、何でもない言葉。
けれど、
その“何でもない”が、術後の私には胸が強く締めつけられるほど重かった。
手術をして、歩ける距離も長時間はつらい、
痛みで動けない日もあって、
以前のようには遊んであげられない。
それでもこうして、
子どもが横に座って笑ってくれている。
この当たり前が、どれほどありがたいものだったか。
私はその瞬間、深く実感した。
子どもが成長するように、私も一歩ずつ前へ
短い散歩だった。
ただ公園まで歩き、ベンチに座って休み、戻ってきただけ。
だけど、その数時間は私の心に強く刻まれた。
子どもは確実に成長している。
親が思うよりも早く、
そして静かに。
ならば、
私も歩けない、痛いと嘆くだけではなく、
一歩でも二歩でも前に進まないといけない。
子どもの背中を見て、
そう心に誓った。
“何でもない一日”の重さ
家に帰ると、子どもはいつものようにブロックを持ってきて言う。
「次これ作ろう!」
以前のように全力で遊んであげられるわけではない。
途中で横になる日もある。
痛みで動けず、何もしてあげられない日もある。
それでも、
“今日”という日を一緒に過ごせたことが、
それだけで十分すぎるほどの幸せだった。
術後の体で知ったのは、
特別な日ではなく、
“何でもない一日こそ、いちばん重い”
ということ。
その重さを教えてくれたのは、
ゆっくり自転車をこいでくれた、
あの日の子どもの姿だった。
私は決してあの日の1日は忘れない。
私の中で元の体に戻してやると思う原点だから・・・
