「病気がなかったら気づかなかった“普通の危うさ”」

正直に言えば、
病気になる前の自分は、
「普通」に生きているつもりでした。

働いて、
疲れて、
無理をして、
それでも回していく。

多少きつくても、
それが「普通」だと思っていました。

でも、病気を経験してから、
その「普通」が、
実はかなり危ういバランスの上に
成り立っていたことに気づきました。

目次

「普通」は、案外あいまいな言葉だった

「それくらい、みんなやってるよ」
「普通はそうでしょ」
「社会人なら当たり前」

病気になる前、
こうした言葉を
疑うことはほとんどありませんでした。

でも今振り返ると、
その「普通」は、

  • 誰の体を基準にしているのか
  • どの年代を想定しているのか
  • どんな前提条件の上に成り立っているのか

ほとんど説明されないまま、
空気のように使われていた言葉でした。


病気で壊れたのは、体だけではなかった

手術や後遺症で、
できなくなったことは確かに増えました。

長時間働くこと。
無理を前提に予定を詰めること。
体調を無視して踏ん張ること。

でも同時に、
それまで疑わなかった前提も、
一緒に壊れました。

「無理できる前提で組まれた普通」
「壊れる可能性を含まない人生設計」

それらが、
自分の中で急に現実味を失ったのです。


「戻る」ことが正解だと思っていた

回復期の頃、
一番強く感じていたのは、

「早く元に戻らなきゃ」

という焦りでした。

でも、ある時ふと考えました。

どこに戻ろうとしているんだろう?

・体を削って成り立っていた働き方
・無理を前提にした生活リズム
・限界を無視した「普通」

そこに戻ることが、
本当に正解なのか。


普通は、壊れないことを前提にしている

病気になって分かったのは、
多くの「普通」が、

  • 壊れない体
  • いつも同じ体力
  • 先が見える未来

を暗黙に前提としている、ということでした。

でも現実は、

  • 体は突然変わる
  • できていたことは急にできなくなる
  • 先は簡単に見えなくなる

それでも社会の「普通」は、
ほとんど更新されません。


病気は、価値観のセンサーを壊してくれた

病気は、
決してありがたい出来事ではありません。

でも一つだけ確かなのは、
「普通」を無条件に受け入れなくなったことです。

  • それは本当に必要なのか
  • 誰のための基準なのか
  • 自分の体に合っているのか

こうした問いを、
立ち止まって考えるようになりました。


おわりに:普通を疑えるようになっただけで、十分だった

病気がなかったら、
私はきっと今も、

「普通だから仕方ない」
「みんなやっているから」

そう言いながら、
同じ無理を続けていたと思います。

今は違います。

普通に戻れなくなった代わりに、
普通を選ばなくていい自由を、
手に入れました。

それだけでも、
この経験には意味があったと
思えるようになっています。

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この記事を書いた人

会計事務所、事業会社で税務・経理の仕事に従事していました。
40代で脊髄腫瘍になり、手術・リハビリをしつつ、現在はフリーランスで仕事をしています。