これは、私自身の体験から始まった話です。
病気や後遺症を経て、
以前と同じように「できること」は、確実に減りました。
ただ、この話は
「病気をした人だけの話」ではありません。
できることが減ったとき、
人は否応なく、判断の仕方を変えざるを得なくなる。
その過程で、
私は思ってもみなかった感覚を持つようになりました。
できることは減ったのに、
判断することは、むしろ増えていった。
これは、その変化について整理した記録です。
できなくなったことから始まった変化
できなくなったことは、確かに増えました。
長時間座り続けること。
決まった時間に出社すること。
体調を無視して、気合で乗り切ること。
病気と手術、そして後遺症を経て、
「前と同じようにやる」ことは選択肢から消えました。
けれど不思議なことに、
できることが減ったあと、判断することは明らかに増えたと感じています。
「できない」は、選択肢が消えるということ
体調に波があると、
「やるか、やらないか」をその場で決められません。
今日は書けるのか。
今週は動けるのか。
無理をすると、後で何日も影響が出ないか。
以前のように
「とりあえずやる」「あとで考える」という判断はできなくなりました。
できないことが増えるというのは、
単に不自由になるという意味ではありません。
雑に選べなくなるということでもあります。
会社員時代は、判断しなくてよかった
振り返ると、会社員時代は
自分で判断しなくていい場面がとても多かった。
・出社する時間
・働く場所
・優先順位
・やるべき業務
体調が万全でなくても、
「決まっているからやる」という選択ができた。
そこに迷いはありませんでした。
判断は、組織が代行してくれていたからです。
できなくなった瞬間、判断が自分に戻ってきた
病気をきっかけに、その構造が一気に崩れました。
・今日は働くか
・どこまでやるか
・今、休むべきか
・続けるか、やめるか
すべて、自分で決めなければならなくなった。
できる・できない以前に、
判断の主体が自分に戻ってきた感覚がありました。
それは自由であると同時に、
とても重たいものでした。
判断が増えると、疲れる
正直に言えば、判断が増えるのは楽ではありません。
「今日はここまででいい」
「今は進まないほうがいい」
そう決めるたびに、
本当にそれでいいのかと自問する。
体力よりも、
判断疲れのほうが先に来る日もあります。
それでも、以前より生きている実感がある
不思議なことに、
判断が増えた今のほうが、
自分の人生を生きている感覚は強い。
選ばされた行動ではなく、
選び直した行動が積み重なっているからだと思います。
・無理をしない選択
・遠回りを許す判断
・今日は進まないと決める勇気
どれも、効率的ではありません。
でも、嘘がない。
「できること」より、「どう判断するか」
以前は、
「何ができるか」を軸に生きていました。
今は、
「どう判断するか」のほうが重要になっています。
できるかどうかより、
やる意味があるか。
今の自分に合っているか。
判断の質が、そのまま生活の質になっている。
できなくなったから、判断が育った
もし病気がなければ、
ここまで自分で考えることはなかったと思います。
できなくなったことは、
失ったものでもあります。
でも同時に、
判断する力が育つ余地でもありました。
元に戻らなくていい理由
もう、元の生活には戻れません。
戻れないことを、ようやく受け入れつつあります。
ただ、
戻らなくていいとも思っています。
できることが減ったあとに増えた判断は、
この先の人生を、自分の手に戻してくれたからです。
まとめ
できることが減ったことで、
私は不自由になったのではなく、
判断から逃げられなくなったのだと思っています。
誰かに決めてもらう生き方は、もう選べない。
体調も、時間も、働き方も、
すべて自分で引き受けるしかなくなった。
正直に言えば、
その重さから目を逸らしたくなる日もあります。
それでも私は、
この状態を「不幸だった」とは思っていません。
できなくなったからこそ、
自分の人生をどう扱うかを、
自分の言葉で判断するようになったからです。
これは、
誰かに勧めたい生き方で、
正解だと言うつもりもありません。
ただ、
私自身はこの判断の増えた人生を、引き受けて生きていく
それだけは、はっきりしています。
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